OTHERSWORKS

名和研二vs松宮貴之 THE対談

建築と書にとって真理とは何か

【出会い】
名和氏と松宮は今から30年ほど前に互いに一人旅の途上、インドのカルカッタ駅で邂逅を果たしています。気の合った2人は、それからプリ海岸でしばらく過ごしました。

帰国後も学生時代は、よく飲みに行く関係でした。松宮の留学を機にそれぞれの道を歩むこととなり、現在に至ります。今回はその間の変貌をともに語り合いたいと思います。

【用と美】

名和:はい、よろしくお願いします。初めに今回のこのお話「建築と書にとって真理とは何か」は、正直今の私にとって、大変新鮮な思いでした。

というのも現在日々建築の構造設計に携わっていて、現実的に迫りくる日程や締め切りの中で、人間社会・国が作り出して日々かわっていく社会制度に対する手続き対応と、重力・地震・風といった地球のもつ自然のようなものの条件に対する対応、そしてそれらを満たしたものをつくる場合に必要なコストを踏まえた経済的な対応、の大きな3つの軸に対して、建築というものが実に建つための構造の分野における実設計図と、その根拠となる構造計算書の作成、そのために建築家や、実制作をする側である工務店や様々な分野の職人さんとの打ち合わせに追われた日々を過ごしています。

名和研二(なわ けんじ)

1970年長野県生まれ。1994年東京理科大学理工学部建築学科卒。2002年なわけんジム(すわ製作所)設立。今日に至る。

第24回吉岡賞/第24回AACA賞/第12回環境・設備デザイン賞をはじめ受賞歴多数。構造設計1級建築士。

その中で、松宮さんと出会った30年前から今日までで当然いろんなことが自分の中で変わってきています。それを改めて出会った当初に立ち返り「真理とはなにか」という問いかけがされました。そのことが、今の私にとっては改めて大変新鮮に感じられました。よってその30年を行き来するように、お話できればと思います。

そうですね、「建築の真理」という扱いについて当時と今を振り返り、その思いをお話しします。「真理」という、今の私にとって唐突な質問をそれに対する興味の強さで思うに、飛躍もありますが例えて言えば、異性と付き合う場合の「デートを楽しみたいか」、か「同棲を楽しみたいか」、みたいな文脈で、あの頃と現在では楽しみ方が違います。

出会った当初から前半の時期は、どちらかというとなにか「モノをつくる」、特に「作品というものをつくる」ということは、そのモノを生み出すために自らに一瞬の刹那的な課題を課すことであり、それを楽しみ、自らを満足させるようなスタンスだったと思います。

とくに私が若い頃は、例えば演歌的なものが社会で共有できるような戦後の土壌が残っていて、個人的なところもありますが社会的にもそういう風潮が今より強くあったように思います。

そしてもう一つ大きな違いは建築物を竣工すぐの、人に使われる前の大きな「造形物としてのモノ」ととらえていたこと。その造形物が建築とかわっていく、つまりそれを使う人々を「豊かにする」ことを含めて、あえて作品というのであれば、それを使う人の存在は、今と比べて大変希薄だったと思います。

一方最近は、例えであれば「結婚し、家族と暮らす中で、その家族の生活が豊かになるか」というように変わりました。先ほども述べたように、それを使う人々の存在が大きくなったためです。

それに対する対応は、単に概念的なものより具体的な対応と本当にできたものを使う人々の活動の結果が豊かさになっていくのか、に強く興味をもつことに変わりました。人々の活動の関係がより広く、多様に、豊かになり、使う材料や作り方も含め環境的にもよくないといわれることをより少なくする、やめていく、よいといわれることを増やす、それですべてが満たされるようにする、生物であるこだわりや特性のある人間にとって、ある程度集団となり集うなかで「豊かであること」に建築というものが実に機能できるかの意識が強くなっていると思います。繰り返しになりますが実用性や現実に比重を置いた中での「豊かさ」に対してになりますね。

松宮貴之(まつみや たかゆき)

松宮:私は30年前のあの頃、書は読めてなんぼと考えて用の追求に向いました。それで北京に留学したり、大陸・台湾と武者修行をしたんですが、中国人はやはり読んでくる。用から、入りましたね。そういう意味でも、観客数が断然、日本より中国の方が多い。でも最近は名和さんと逆に交差する様に、art的な表現に関心を持ち始めています。

名和:実際にやってみると建築は現実的な分野、自然、社会制度、経済との括りが強いですからね。

松宮:そう、でも書はそういう文脈が少ないから自由だと思うのですよ。だからいろいろと自由な方向を進めてもいいように最近は思っています。

名和:はい。ただ私はart的なものは現実的なものを豊かにする方向、姿勢だという思いのため、現実的でない=art というよりは 現実的なものを豊かにするためにすべてを包んでいる=art  というような世界観が今はあります。

実際に働く前とそれから20年ほど過ぎ自らも実建築設計活動をしてからバルセロナにガウディの建てた建物に、2度訪れました。当初ガウディのつくるものは単なる装飾が好きなだけ、実機能は無視したart的なものだと思ってその色眼鏡を押し付けていました。

2度目で少しは建築の実経験を増やした自分がガウディの「現実的」なことをきちんと考慮した上で、それだけでは不十分であり「豊かである」ために、最終のつくられているモノが良いことは当然ですが、丁寧につくりかた、材料についても向き合い、結果建築的に専門的でない人にとってもバルセロナという町も巻き込み大きな影響を与えている状況を実感しました。

その「現実的」なものを包む彼のこだわりは、単に現実のみでも、非現実のみでもない対応で、それがartである、と今の自分は位置付けています。

【コンセプト】

松宮:最近は現代美術家に興味があって、建築家では杉本博司さんに関心を持っています。杉本氏はいろいろ手を広げて活動されていますが、ああいう作品はデート系になるのでしょうか?

名和:初めに、私はあまり杉本博司さんの活動を知っている訳ではありません。よってガウディのときのような自分の実体験からのお話ではなく、あくまでの印象のお話になります。

その上で私自身が杉本氏の活動に対して注目する点は、「作品」というものに対して、その価値の評価と社会に対する説明が大変に優れている方ではないか、という印象です。

art系というものをどのように定義するかはさておき、私自身は勝手に、自らの「作品」に対する評価と説明能力が今後、作家にとってさらに求められるのではないかと思っています。

松宮:あとはインスタレーションとかも面白いですね。名和さんは、その方向はどうでしょうか?

名和:私の解釈では、先ほどの「現実的」なものを包み込む現実を越えた豊かな部分があるとすれば、あえて「現実的」な部分を伏せてそれ以外を見せる機会をつくっているのが、インスタレーションだと思っています。そしてその意味で興味を持っています。

私は自らの建築に対する活動の一つの成果に「豊かになること」があるとし、その活動に対してインスタレーションは、実機能をこえた美的の方面を担ってくれていると思います。よって実用の豊かさは、豊かさとして純化させることも可能で、そのような美を例えば映像などが担えるのではといった線引きを今はしています。

松宮:私は個人的に、書のインスタレーション化もありだと思っています。他領域との融合は今後、一つの指標になるでしょうね。

【古美術の引用】

松宮:あとは書の場合、古いものを新しくする点がつよいのもありますね。「温故知新」というか。名和さんの建築にも、そういう要素はありますか?

名和:はい、人が生物である以上、今も昔も関係なく、熱い、寒い、そして新緑のこぼれ日の中に身をおく心地よさは、今も昔もかわらない部分がありますね。その意味で古来より「心地よさ」を感じられる状況に豊かさを感じます。そのような状況を大事にして検証することが一つの「温故知新」であると思っています。

また実対応でも「温故知新」的な対応の一つと言ってよいと私は思いますが、古い民家などをそのまま改修するのではなく、新たに違う現代の実用的な用途を与え、一部を壊し、一部増築し、着想を加えて生まれ変わらせることは、空き屋率が30%以上となる日本社会の社会資源を有効利用する活動の一つとして主流になっています。実際私の最近の三割くらいの仕事がそんな活動になっています。

新たにゼロから人が集まる装置、建築を作るのではなく、それを利用した人の記憶や環境を踏まえた上にモノをつくる、そういう表現が確立し、多く流通してきたという実感です。

松宮:私は書における臨書という行為でも、そういう現代化があっていいと思っています。古いものそのままの敷き写しではなく、新たな現代の用途を加えて。最近は私の中でも臨書というより古美術の引用という感じで書いています。やはり現代的というか、現実性がなくてはならない。

【作家と流通】

名和:なにかをつくる人、作家ということであれば、どういう活動、作品を作ってきたのかは問われますね。現代は、インターネットですぐに履歴が調べられますし、どんな仕事を現実的にし、活動、生き方をしている人か、それもきちんと個性、表現であると思います。

松宮:最近、私はマスメディアを使った批評家みたいになってますね。作家が批評家みたいになっているという形は、建築の分野より2、30年遅れている感じです。

名和:書は書でいろんな形があることはいいと思いますよ。そこにも価値はあるでしょうし。建築と同じでなくていい。分野も社会的背景も違いますから。

ただ、社会において個々の情報の取り方がかわり、既存の価値がかわるとき、良いというものが変わる場合もある。その変わる必要がある中で各分野の権威や、既存の価値観が、足かせにならず次のためにきちんと後ろ盾となるか、その比率が分野ごとで違ってくると思います。

書の世界は、文字を墨で書くを軸に、そこから距離が遠すぎると他分野になってしまったり、既存の権威に対して繊細な対応が必要な分野ですね(笑)

【近未来像】

松宮:最後に建築の今後の方向性についてお聞かせください。

名和:私は建築はよい方向に進んでいると思っています。用と美を一致させながら時間の経過を考慮して機能させる。実際に使う人の存在を大事にして、その人がそこで時間をかけて生きていくときに「豊かさ」を高められるものをつくっていこうとする姿勢が感じられるからです。そういう未来像を私は抱いています。

少し話が飛躍しますが、今の世に対して、未熟、または一見違う価値観は、私の中では対立かつ悲哀ではなく、未知を知る始まりと学習領域を広げられる機会であるととらえています。あとはそれによる気づき、インプットが、何を作り、作られたものがそれを触れる人を、どのレベルでどこまで満足させるか。

そういう互いの覚悟でそれぞれが生きるとき、それは上下でなく差異として存在する。未知、未熟、未達成が本気で歩んだ実感なら、すべては実感を生み出す強い熱となる。そしてなによりも大事ことは、差異がある中で自らと共感する人。対象は自分にとって大事と思えるモノ・コト(者・物・事)。

それらの活動を、社会的責任をとる意味で「作品」という扱いで自分自身は今はいます。それはつくり、作り続けている人であることです。作家としての主題や未来の源泉は差異からうまれる熱だと今は思っています。

松宮:いまも熱いですね。私たちの書もそういう生き方や方向性が、理想的なのかもしれませんね。artと実用の融合と、あとは作家の現実的な社会的責任感ですね。名和さん、今日は大変勉強になりました。お忙しい中ありがとうございました。