私は恥ずかしながら牧原先生に教えて頂くまで、田中耕太郎という人物についての知識をほとんど持ち合わせていなかった。つまり極めて白紙に近い状態で、この著作を念入りに読ませて頂いたことになる。
読み進む中で、教育・司法・行政と国際的に活躍した田中の原動力は何か?という点がもっとも気になったが、それはカトリックのキリスト教の精神ではないだろうかと想いを馳せた。
私事になるが、私は学生時代に、田中と同じ東京大学で教鞭を取っていた哲学者の森有正に私淑し、偶然にも北京や東京の国際寮で彼の関係者に知り合う機会も得た。ちなみに森有正はプロテスタントである。
私は当時、書家を目指している裏面で、そのバックボーンとなる精神を求め彷徨しており、森有正全集を原稿用紙に抄写し、あるべき民主主義を構成する個人について思索することを毎朝の日課にしていた。ある意味、当時キリスト教に何かを求めていたのだ。
さて東大のキリスト教関係者というと例えば、南原繁、森戸辰男、宮田光雄などが挙げられようが、彼らが戦後日本の立て直しに多く尽力されたことは言うまでもない。
私が、牧原先生の田中論で最も印象的だったのは、共有する問題意識、田中の教育基本法へのコミットの分析のところである。牧原先生は、田中がそこに「人格の完成」という言葉を入れるべき、と強く主張したとして、次の文を引用されている。
“教育は、真理の尊重と人格の完成を目標として行わなければならない。しかるに従来、わが国の教育は、ややもすればこの目標を見失い、卑近なる功利主義に堕し、とくに道徳教育は形式化し、科学的精神は歪曲せられ、かくして教育と教育者とはその固有の権威と自主性を喪失するに至った。この事態に対処するためには、従来の教育を根本的に刷新しなければならない。(鈴木英一『教育行政』)”
ということは、田中は教育にもキリスト教的な人格主義や博愛意識、そして新しい日本の展望と気骨を見出していたのであろう。
そして戦後、戦時の歪曲された功利的な東洋思想への嫌悪と反動と、戦前の「東洋対西洋」の構図という桎梏からの解放は、新しいキリスト教の布教の追い風にもなったはずだ。
私自身も日本の民主主義思想の低層には、キリスト教の人格主義への敬意があると考える。ただ大事な点として、田中は「家族」や「伝統」の価値を重視する保守主義の思想も持ち合わせていたことは見逃せない。
さて、2006年(平成18年)12月22日に公布・施行された現行の教育基本法は、田中らが携わった1947年(昭和22年)公布・施行の教育基本法(昭和22年法律第25号)を改正したものであるが、その前文で、
“我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るためこの法律を制定する。“
とあり、少しく修正的に継承がなされている。ここに、戦後のキリスト教が日本に与えた影響力を再認識し、現在の状況を踏まえて連続性を保った上で、さらに新たな正しい東洋思想との融合がなされることを今後期待したいものである。
本著から、私が精神の基軸とする「伝統」と「民主主義」を考える上で、多くの示唆を得た。そういう文脈であっても、面白い一書だったように思う。断章的な書評になってしまったが、戦前、戦後を自由主義で貫いたカトリックの骨骾高爽な人格者の足跡を学界・政界・司法とトータルに精緻に追った業績は、まさに必読の書と言えるだろう。